明烏ど阿呆日記

徒然に考察する岡田茂吉思想とこれから

その3

昭和29年6月1日

明主様は、お部屋より、次の間(会見の間)まで4回位歩くお稽古を遊ばす。歩き振りが一段とよくおなりになられる。明主様は、お疲れになられると、お椅子にお掛け遊ばされ、外の景色を御覧遊ばす。お庭に飛んで来る色々な鳥や蝶の飛び交う様子を御覧になりながら「ただ、ぼんやりとしているのが一番いい」と仰せられる。ご間食はお好みのものをよくお召し上り遊ばす。

午前11時、樋ロヨネ氏を咲見町仮本部より呼び戻される。明主様は樋口氏の因縁についてお話をされ、「これからは何事でも善意に解釈して素直にならなくてはいけない。お前は私と同じように素直な気持になれ。少しでも神様にお手数をかけぬようにせよ。そしてこれからは余分なことに気を回さないように頭を働かせることである。まごころをもって、気配り、心配りができぬようでは御用に使えぬ」とお教えになられた。そして明主様には非常にお厳しく、「寸毫も間違いは許さない」と仰せられた。(樋口)

 

 

昭和29年6月3日

「5日程前に気付いたのだが、手に世界を治める筋が現れた。このことは昭和6年6月15日に知らされていた」と再び側近に、掌に五本の筋が現れたことを仰せられていました。

 

 

昭和29年6月5日

本日役員、教会長など選ばれた者のみ明主様の御面謁を賜わることになった。御面謁は当初咲見町仮本部で行われる予定になっていたが、碧雲荘に変更され、バスにて約500名移動する。御面謁は午前11時に賜わることになっていたが、明主様は未だお休み遊ばされているといわれ、一同お待ち申し上げる。

 

11時30分過ぎ、「お庭へ入るように」と係の指示を受け、一同お庭へ移ると、筵が敷かれてあり、そこに整列する。やがて廊下の白いカーテンが開かれる。明主様は樋口氏の手をお取りになられて、お椅子の所までお歩き遊ばされ、御面謁者にお姿をお見せになられる。一同平伏する。

 

明主様お言葉

「ずいぶん若くなってるよ私の方は―メシヤ降誕と言ってね、メシヤが生まれたわけです。言葉だけでなく事実がそうなんですよ。私も驚いたんです。生まれ変わるというんじゃないですね。新しく生まれるわけですね。ところが、年寄りになって生まれるのは変ですが、いちばんおもしろいのは、皮膚が赤ん坊のように柔かくなる。それからこのとおり、髪の毛が生まれたと同じような―床屋がこれを見て、子どもの頭髪だと言うんです。だんだん白いのがなくなって、黒いのばかりです。いまに黒髪になりますよ。だから、神様はおおいに若返れと、そして、仕事をしなきゃならんというわけなんです。

それで、今度のことについては、もう奇蹟っていうどころじゃない、奇蹟以上の奇蹟がたくさんあったんですけども、さしつかえない点だけはだんだん発表します。

それで、このメシヤというのは、世界中で最高の位(クライ)なんです。西洋では王の王ということになってますが。キングオブキングスと言ってその位をもってるんです。だから、私が出てはじめて人類は救われるのです。たいへんな事件なんです。それで、いろいろ話がしたいけれども、何しろまだ生まれたての赤ん坊なんですから、あんまり面倒くさいと嫌で、簡単に、要点だけを話をしたつもりです。また、この十五日にもっと詳しい話ができると思いますので、きょうはこのへんにして―」

 

 

昭和29年6月15日

メシヤ降誕仮祝典。

メシヤ様に対し奉り、天津祝詞奏上、御神名天照皇大御神。

「明主様」から「メシヤ様」と御尊称申し上げる。

 

大草管長より「全信徒の皆様に、私から特に申し上げます。只今迄、私共信徒は「明主様」と呼び讃えて参ったのでありますが、今日この御祭りを期しまして「メシヤ様」と申し上げたいと存じます。その点、皆様の御了承を得たいと存ずるのであります。扨て今日の式典は、救世教の歴史に重大なる一頁を劃するものと、私は確信しているものであります。救世主の出現は、実に、遍く全世界人類の待望している処であります。これを西洋的に申し上げますれば「メシヤの降誕」であり、東洋的に申し上げますれば「弥勒下生」という事になると思うのあります。

この「救世主」の出現―即ち、救世主という言葉は、世界に於ける最高最貴の御方を指して申し上げるものと思われるのでありますが、日本で申し上げれば「天照皇大御神様」にも相応するのであると思われるのであります。

今日「メシヤ様」御降誕を御祝いするという意味におきまして、この盛大なる式典が、メシヤ会館に於て挙行されましたる事は、全信徒の皆様と共に、祝福と歓喜に堪えざる次第であります。又、今日は丁度天照皇大御神様の御誕生日に当る日であると申されて居る佳き日でありまして私共にとりまして、誠に歓喜と祝福に感無量なるを禁ずる能わざるものがあります。

今日「メシヤ様」よりは、皆様に、別に御言葉が御座いませんでしたが、それは御降誕間もない事であるとの意味におきましての御事である由であります。今日この式典が挙行されましたるメシヤ会館は、御覧の通り現在約90%の工事進捗を示して居リますが、来年の三月三日、水晶殿と共に、盛大なる完成式が執り行われる予定になって居ります。

このメシヤ会館の開館と共に、益々救世教が全世界に向って発展し、「メシヤ様」の地上天国建設の御聖業が、段々とこの世を幸福化するものと確信し、全信徒の皆様と共に、色々と御偉業の一端の御仕事に当たらせて戴いて、御恩の万分の一でも御返し申し上げる覚悟を以て邁進致したいと存ずるのであります。甚だ簡単でありますが、今日の祝典に当り、私の御挨拶として申し上げたる次第であります」

 

次いで阿部執事より「メシヤ様の御手の筋でございまして、いわゆる天下筋と申すのでございますか、左の御手の五本の御指にありやかに現われていらっしゃるのでございます。これは何と申し上げましたら宜しいか、「ごてんもん」とでも申し上げますか、あるいは「ごこう」とでも申し上ぐべきでしょうか。この事に関しては、五十年間も易学を専門にやっている方に御聞きしましたのですが、このおしるしは、神様が御現われになったという意味で、非常に珍しいことであります事、この度の御病気はそのおしるしが現われます為のものであった事、今後大変御長命に亘らせられます事、又御事業も更に更に新しく、沢山おやりになることになります事という返事でございました。どういう訳で神様がこのおしるしを御与えになったのでしょうかという事でございますが、昔から“メシヤは手に証を持って生まる”という言い伝えがあるのでございます」

 

ある側近奉仕者の言葉として

昭和29年6月15日、メシヤ降誕仮祝典を熱海のメシヤ会館でなさって、その日の夕方に箱根にいらっしゃいましたから、メシヤ様として生活をされたのは観山亭ですね。明主様は「私はメシヤとして最高の位についた。今日から皆で私のことをメシヤ様と言いなさい。私のことをメシヤ様と言えない者はここを出ていきなさい」とおっしやいました。そして「最高の位についたのだから、最高の言葉、最高の扱いをしなさい」と。

 

 

昭和29年6月17日

メシヤ様は、「太田を呼べ」と仰せになり、その連絡を受けて、太田氏は作業場から急ぎ駆けつける。メシヤ様は太田氏が足袋を履いていないことに気付かれ、「メシヤの前に出るのに下袋を履いていないとはどういうことだ。長年私の元で奉仕しているためにいまも同じ気持ちでいるのだろう。私がメシヤとなった今、想念を改めて奉仕をしなければ、今後お許しにならなくなる」と厳しく仰せになられる。太田氏はお詫び申し上げると共に、他の奉仕者にもメシヤ様としての受け止めを確認する。

 

 

昭和29年6月22日

メシヤ様は、「日光殿のメシヤ観音のご神体を私の写真(御尊影)に換えよ」と仰せられる。阿部執事は多賀氏を呼び、本金のお額を東京のデパートで求めて来るよう指示する。

 

 

昭和29年6月24日

日光殿の「大光明如来」の御神体は「御尊影」にお取替えとなり、前の御簾を下まで下げられる。(中略)御神体が「御尊影」に換わった後、箱根夏期事務所に於て教団幹部と顧問の松井誠勲との間で御尊影の御奉斎について喧々諤々の論議が戦わされた。松井氏の論は、「天皇陛下のお写真と同じようにメシヤ様の写真をご奉斎することは右翼団体に乗ぜられる恐れあり、しかも現在右翼団体の活動が活発化し警察当局の眼が光っている時でもあり、こうした情勢を鑑みて御尊彭のご奉斎は取り止めるべきである」といい、その反対に木原、森山氏等教団幹部は、「これはメシヤ様独自のカラーであり、メシヤ様の一つの御経綸として仰せられたものであり、あくまで実行すベきである。社会の動きに対し、何故迎合する必要があるか」と厳しく意見が戦われた。

 

 

昭和29年6月25日

6月25日より3日間に亘って行われた日光殿での御参拝は、御簾をおろし、電気を消して天津祝詞を奏上。「天照皇大御神守り給へ幸倍賜へ」と奉唱する。

 

祭典後、日光殿幹部室(後部和室)に於て会長会議が開かれる。以下はその時の本部の役員より説明された内容である。

 

○「明主様」を「メシヤ様」と申し上げる事になった。

○「メシヤ様」は最高神であらせられるから今後は最高の敬語を使用しなければならない。

○朝夕、祝詞を奉唱する時は「天照皇大御神守り給へ幸倍賜へ」と唱和させて頂く。

○御神体はお写真(御尊影)にかわる。

○お写真の御奉斎の前に御簾をお掛けする。それに伴い御神前の縦、横を採寸し、見取図を作成して本部へ報告する。