明烏ど阿呆日記

徒然に考察する岡田茂吉思想とこれから

その5

昭和29年8月1日

メシヤ様は、「現在の体の状態では、まだメシヤとしての活動を十分に尽されない感があるから従来通り明主の言葉にて唱えるように」と阿部執事へ仰せられ、栄光紙にその旨を発表される。

 

 

昭和29年8月8日

朝、お側奉仕者の佐藤氏は、お茶をお出しすべく用意して「どこに置かして頂きましょうか」と申し上げたところ、丁度明主様のお手はふさがっており、代わって利見氏が、「そこに置いといて下さい。後、私からお出しさせて頂きます」という。佐藤はお側にお茶をおのせする台が見当たらないため、お盆にのせたお茶をそのまま畳の上に置き、下ろうとした処、明主様より「神様に差し上げるお茶を畳の上に置くとは何事だ。すぐ下がれ」と仰せになられる。佐藤はもうお側奉仕はお許し頂けないと思い、帰宅する予定でいたところ、阿部執事になだめられ、お勝手奉仕を努めることになる。

 

午後1時、樋ロヒメ氏はメシヤ様にお呼び頂き、お側奉仕を努める。メシヤ様にお出ししたアイスクリームが生臭く、製造に関わった者2名をお呼びになられ、1名は奉仕をとかれ、あと1名は平素の奉仕振りを評価されお許しを頂く。メシヤ様は「如何なる奉仕でも、誠と気配りが出来ぬ者は御用に使うわけにはいかぬ」と仰せられる。

 

 

昭和29年9月13日

明主様は、お側奉仕者に「物事は総て即刻主義をとれ」と仰せになり、御用を迅速に対応する在り方を御教え頂く。また、「常識をもって御神書以外のものも読め」と仰せになり、新聞や雑誌、一般書籍などに親しみ、巾広く教養を身につけることを御教え頂く。

 

 

昭和29年9月18日

(前略)途中、利見氏が台風の予報をお知らせする。その前に明主様より、「台風の予報はまだか」とお尋ねになられた。利見氏が、「今、お知らせしようと思っていました」と申し上げる。すると、「思っていただけでは何にもならない。私がお前に、指輪をやろうと思っているが、さあ、お前礼を言いなさい」と仰せられてお笑いになられた。大森氏が代わって「有難過ぎて、何とお礼申し上げてよいやら、お礼の申し上げようもございません」と答えたので、一同大笑いとなる。

 

 

昭和29年9月27日

午後5時にメシヤ様はお出ましになり、(中略)大草管長など教団幹部がお迎えし、大祭終了の御挨拶を申し上げる。その折、メシヤ様はニッコリ遊ばされ、お頭の黒髪をお見せになり「何しろ赤ん坊だから、何も言えません」と仰せになられる。

 

その後、早雲道路(上る)を通られて、美術館本館にお入りになられるその折、メシヤ様は、尾西氏を呼ばれ、「大○栄○に、最後の審判が近づいている、救われたければ私のいうことを素直に聞かなければならない、世界人類を救うものが、そんなことでは駄目だ、と伝えよ」と仰せられる。

 

 

昭和29年9月28日

メシヤ様は、美術品を御覧遊ばした後、「尾西」とお呼びになり、「ちょっとここへ来なさい」とのお言葉なので、早速御前に参ると、「大森が私の言うことを聞かないで、実行していないのを見ていて、何故忠告しないのか。私が大森に言っていたのを聞いていたろう」とのお叱り、何と申し上げてよいやらわからないので黙っていたら、「お前、返事もしないのか」とのお叱り、唯々、「申し訳ありません」と申し上げると、「私の言うことが聞けないようではもうクビだ」とのお言葉。阿部執事の「これからもっと監督いたしますから」とおとりなしで、「それでは今後の様子を見よう」とのお言葉にて、お許しいただく。後で、阿部執事と大森氏と尾西氏を前にして「お前たちは知らないだろうけど、救世教の信者でも最後の審判によって残される者は少ないんだぞ。それなのに、そんな気持でいたら、亡びるよりほかにないではないか。救われたいのなら、もっと心を入れかえなければならない」とお言葉を頂き、心から御詫びを申し上げる。(中略)

 

青邨の「厳島」をお見せすると、「ほう、これは私は見なかった、初めてだ」とのお言葉。そして、「何時、買入れていくらだったのか調べなさい」「電話があるだろう、今すぐしなさい」とのお言葉、太田氏は4時お出ましの時に、「すぐ行って参ります」と申し上げると、お側の利見氏を振り返られて「これを即刻主義と言うんだ」と仰せられてお笑いになり、「ねえ、尾西さん、さっきのことでも即刻主義でやれば、何もあんな問題は起きなかったのに」とのお言葉、「はい、申し訳ありません」とお詫び申し上げ、明主様が本当に笑顔で仰せられるので、こちらも笑いながらもお言葉有りがたく、殊に“さん付け”で呼ばれるのには、全く何と申し上げてよいやら、有り難い極みである。

 

 

昭和29年10月6日

御近況 阿部晴三
(メシヤ仮祝典後の御浄化とごてんもんと御頭髪に関して)
御浄化の強くあらせらるるため、御頭部の方に、あるいは御足の方に、御苦痛のあられたことも屡々あり、その為殆んど御睡眠のなかったこともあり、御食事も全く御摂りにならなかったり、全くの流動物だけのことや全くの野菜食のこともありまして、御生誕後間もない御方の御生育の御過程を経られる御様子にも拝され、又他面には生活におきましての色々な型とも申し上ぐべき事をなされた御様子でもありました。
次に御神業に関することでありますが、御浄化中におきましても一日の御休みもなく、次々に御神苑内に起こっておりまする色々の型の御経輪を行わせられました御模様で、これについては、いずれ詳細を皆様に御発表になられると仰せられていらっしゃいます。
御神苑内を御散策なされるのでありますが、絶えず「信者さん方の御参詣の際にはどの程度に見られるだろうか」「次の参詣日には満開になるだろうか」等々、何時でも御気にかけられ「もっとも状況のよい時に皆さん方が眺められるとよろしいが」と仰せられていらっしゃいます。
六月十五日熱海メシヤ会館で申し上げました、明主様の御手の筋でございますが、その後もはっきり現われており、最近は拇指の第一関節にまで筋が現われて参りました。六月十五日当時は、第二関節にだけ現われておったのでございました。更に最も驚くべきことは、あの白であらせられた御頭髪が段々黒くなられて参った事でありまして、隔日毎にお手入れに参っておりまする理髪をする人が驚いている程でございます。

 

昭和29年11月1日

この頃からメシヤ様は、お側の奉仕者たちに「正直になれ」ということにお力をお入れ遊ばす。奉仕者がご報告申し上げる時、ちょっと言葉がつまると、「嘘を言っている」とご指摘になられた。本人としては嘘をついているわけではないが、「嘘だ」と仰せられると、余計に緊張し、どぎまぎしてしまう。次の言葉が出なかったりすると、「人間は嘘はいかん。私は嘘をつく人間は許せない。正直人間に造り直すのだ」と仰せになられる。従って奉仕者は嘘がないように努め、いい勉強になったという。この正直な人間をつくるということはご昇天まで力をお入れ遊ばす。気温が低く、お部屋の暖房のために、小林清太郎を始め奉仕者は午前2時に起床し、終日大釜で湯をわかし、ゆたんぽをいくつも用意し、お部屋に配置する。この湯わかしは明主様の御昇天の日まで続けられた。(太田俊次)

 

 

昭和29年11月3日

メシヤ様は、一週間に亘って続いた下痢と痰、咳のご浄化により御体調が悪く、全くご食欲がないご様子であらせられる。午前10時頃、奥様、おば様をお呼びになり、「朝から食欲がないから駄目かも知れない。体熱がでればよいが、出なければ駄目だ。死ぬかもしれないのでこれから私の気持ちを言うから」と、御遺言様のことを仰せられた模様である。

 

 

昭和29年11月6日

メシヤ様は、「紙は神に通じる。だから紙を粗末にしたら、結局神様を粗末にすることになる。紙を無駄に捨てたり、無駄な使い方をしないようによく気をつけなければならない」と仰せられる。

 

 

昭和29年11月16日

メシヤ様への朝のご挨拶は8時と決められ、お側奉仕者は、その時間となると、揃ってご挨拶申し上げた。その都度、メシヤ様は、二言三言大事なご垂示を遊ばされた。この朝は「キリスト教が開教した頃は、キリストが奇蹟を現わした。次いでその弟子たちも聖書にあるような奇蹟を現わした。ところが、その次の世代になると、信仰を理論化し、教義を中心にした伝導が行われるようになった。そのため今日のように説教が中心になり、宗教としての活力がなくなってしまった。メシヤ教に於ても、浄霊による人類の救済活動を中心にして進めなければ、浄霊の力が弱くなり、いつしかキリスト教と同じ轍を踏むことになる」と仰せられる。