明烏ど阿呆日記

徒然に考察する岡田茂吉思想とこれから

記事転載について(2)

久しぶりに「明主様御論文アーカイブ」を拝見しましたら、本ブログから転載されていたと思われる昭和29年神秘の御浄化が削除されていました。前回の記事をお読みくださっての事でしたら、感謝申し上げます。

 

今回初めて「このサイトについて」と題してアーカイブの管理人さんが明主様御論文を公開した理由を述べられている部分を拝見しました。新型コロナとそのワクチンの一連の騒動に関し、2023/10/30時点でのお考えを吐露されておられましたが、私もほとんど同じ思いです。

 

信者ばかりではなく専従者までもがワクチン接種に積極的。いまだにマスクを離さない。

 

――言いたいことはいろいろありますが、私などがここでああだこうだ書いても仕方がないこと。心ある方々がもうあちこちできちんとした形で発信しておられるでしょうから、書かないことにします。

 

願わくば、最後の御浄化等に関する、まだ正式に公表されていない情報がきちんと出され、さらにご昇天後改ざんされたものの検証などを通し、私たちの御教えの理解、明主様の御神格の理解が深まり、真の救いにつながっていきますように。

 

記事転載について

このブログはそもそも、ネットで拾い集めた昭和29年からの御浄化中の記録を、あくまで参考資料として自分なりにまとめ、ご紹介するのが目的で始めました。なので一応「日記」と銘うったにもかかわらず、日記とは程遠いものになっております。

 

先日、「明主様御論文アーカイブ」というサイトに、昭和29年神秘の御浄化の内容が完コピ掲載されているのを見て大変驚きました。

 

このブログの一番初めに記したことを再度書かせていただきますと

 

〈なにぶんネットで得た情報ですので、真偽の検証なしにはこれが事実だと断定することはできません。人の証言にはどうしても主観が入ってしまいますし、物事の解釈の仕方も人それぞれですから、ある人にとっての真実でも客観的に見た真実と一致しないことがあるかもしれません。場所や人の名前など、私にはよくわからないものも複数あります。
そういう事情を踏まえたうえで、一応できるだけまとめてみたものとして出させていただこうかと思います。〉

 

ここにご紹介した情報が真実または事実であるという確証はございません。あくまでネットで見つけた情報だからです。ネットで目にすることをそのまま信じてはいけないのは現代の常識でありましょう。ただ、真偽のほどははっきりしなくとも、参考資料としてはそれなりに価値があるのではないか、また、こういう情報が散乱している現実を鑑みると、世界救世教という教団としてきちんと検証し整理した形で世に出すべきものは出す、既にそういう時期ではないか、僭越ながらそれを問いたい、という思いを込めて出させていただきました。

 

しかしながら、明主様の御論文・御講話のアーカイブというサイトに「先達・側近奉仕者の記録」というタイトルのみで出されると、まるでそれがそのまま事実であったかのような印象を与えてしまいます。それは非常に不本意なことであり、大変残念に思います。遠慮なく申せば、そういう姿勢は危険だからです。客観的に検証された事実であるのかそうでないのかの区別が出来なくなってしまう、そういう危険性をはらんでいるからです。私たちが求めている真実からかえって遠ざかってしまうことになりかねません。

 

教団のしかるべき部署には、先達の方たちの記録がちゃんと全部あるそうですから、しかるべき方々にぜひ検証をしていただきたい、その結果をお知らせいただきたいと思います。

 

 

 

 

令和のミロクの後

「天国の礎」に昭和23年ご執筆の「二十一世紀」というみ教えがありますが、ここに掲載されているのは実は一部で、本来は前に「序文」があり、後に「悪なき社会」と「政治」が続きます。未完成の原稿であるらしいので、本文だけを掲載したのでしょう。

 

因みに序文は以下の通りです。

 

序文

 私の常にとなえる地上天国とはいかなる世界であろうかという事は、よく聞かれるのであるが、これについて私は一九二六年神示によって知り得た一世紀後の世界の状態であるが、今まで幾度書こうと思ったが、どうも時期尚早のような気がして今日に至ったのである。ところが最近に至って書かなければならない時期到来をしきりに感ずるまま、ここにペンを執る事になったのである。しからばこの神示の未来記とは果して実現さるべきや否や、これは読者の想像に任せるが、私としては必ず実現すべき事を確信するのである。
 そうしてここで断っておきたい事は、読者が百年間眠っていたところ、ようやく眼が醒め、それと同時にあまりに世界が変った事に驚いたのである、という事を仮定して書いたものであるから、読者はその積りで読まれたい事である。

 

明主様は決まった時日を含む予言は必ず外れるとおっしゃっていますから、1926年に一世紀後の未来の様子を知らされたといっても、ちょうど百年後の2026年にミロクの世が出来ているとは限らないのですが、前回書いた事柄を鑑みると、令和5、6、7年ミロクの翌年の2026年。自ずとその期待は湧いてきてしまいます。

特にこの頃、都市伝説界隈などでは2023年に世界にとんでもないことが起こるとか、2025年に日本が滅亡するとか、コロナ禍も相まって人々の不安を象徴するような話がまことしやかに広まっているようで、それらに接するたびに大浄化・大峠の御教えに思いを馳せると同時に、「でも2026年にはミロクの世になってるかもだし」と呑気に考えてしまうことも正直ありました。

 

でも現在の世界情勢からして、いくら何でも2026年は早すぎるだろうかと思っていたところ、先日またこの御教えを目にしました。そこでふと気づいたことは、ご神示を受けられたのは1926年ですが、ご執筆されたのは昭和23年、つまり1948年だということです。

ひょっとして、1948年から百年後、ということはあり得るだろうか?という考えが浮かびました。

2048年。いったいどんな意味がある年だろうと思い、何気なく調べてみて驚いたのは、2048年は令和30年にあたるのです。

 

いわずもがな、明主様は昭和30年3月3日に「メシヤ降誕本祝典」を行う計画をされていましたが、2月10日に御昇天となりました。

当時実現しなかった「メシヤ降誕本祝典」を、その後複数の団体が独自に執り行うということがあったようです。そのたびにそれらの団体内では大きな意味付けがなされ、御神業の一大イベントであるとの盛り上がりが当然あったようですが、過ぎてしまえば、特にその他の団体にしてみれば、そんなことがあったの?くらいの認識に終わってしまった感が否めません。個人の感想ですが。

 

そしてこれはあくまで個人の妄想ですが、明主様系団体内のみならず、全世界的にメシヤの力が顕かとなり、あまねくメシヤ降誕を祝うようになるでしょうか、2048年には??

 

私がそれまで生きているかは微妙ですが。2026年だったら大丈夫かと思ったんですけど。

 

もう一つ、ご神示を受けられてから22年後にやっとご執筆になられたにもかかわらず、このみ教えが何故未完成、未発表のままとなったのかという疑問も残りますが、これは私に考察できるレベルをはるかに超えているかと思います。

2023年からの五六七

「神智の光」の中に以下の記述があります。

 

丑寅(うしとら)の年(昭和二十四、五年の丑寅)

 今年は丑年で古来から丑寅は悪年のように言われておりますが、本年の節分は特別に何か意義が有りますか。御伺い致します。

 

 悪い年というのは本当は良い年である。それを悪いというのは、人間がろくな事をしていないからである。
 丑寅は非常に良い。浄化の強い霊気が来る。今年来年の丑寅は非常に意味があり、今迄で一番意味がある。極く古い時代に国常立尊様は押込められ、艮の金神となられ閻魔大王になられた。審判の神で徹底的浄化をさるる神で、世の終りに審判をされる。それがキリストの言う最後の審判である。それが今近づきつつある。今年来年はそういう時が迫って来ている。そういう意義がある。(S24)

 

「神智の光」の別のところには「十二支は支那で出来たもので、無意味ではないが、大して意味はない…私は問題にせぬ」とのお言葉がありますので、重要視しすぎるのは控えるべきだと思いますが、興味深い部分もありますのでまとめてみました。

 

昭和25、26、27年(1950、51、52年)は五、六、七であり現界が昼間になる、新しくなると「神智の光」にありますが、丑寅は昭和24、25年で、一年オーバーラップしています。令和最初の丑寅は令和3、4年(2021、22年)で、令和5年からの五六七には掛かっていませんが、非常に近いですね。

 

令和5、6、7年の五六七が終わった翌年は2026年で、明主様が百年後の世界を描写したとされる未発表のご論文「二十一世紀」の内容を神示によって感得された1926年からちょうど百年目です。

 

丑寅の過ぎた今年令和5年は卯年。方角では真東を指します。東方の光を思わせますね。卯、辰、巳の五六七の翌年令和8年は午年。明主様も午年のお生まれですが、時刻では真昼の12時。昼の時代の到来が現界で完全に明らかになるということでしょうか。

 

その後、令和9、10年は未申(ひつじさる)。艮の金神国常立尊の妻神豊雲野尊(とよくもぬのみこと)は「未申の金神」です。世界的大浄化の後の物質的繁栄を意味するのでしょうか。

 

因みに明主様が鋸山でご啓示を受けられた昭和6年(1931年)からちょうど百年目の2031年は亥年。十二支最後の年です。その前の戌年と続けて戌亥は乾とも書き、乾坤山に通じますね。

 

乾坤とは方角の乾(北西)と坤(南西)という意味のほか、乾は太陽、坤は月を指すこともあり、天と地、またその間人の住むところ、という意味もあります。

 

 

ロシア

「それでソ連は、ロシアと言いますが、これは露です。そこで太陽が出ようとする夜明けには露が一番多く大地に溜まるわけです。しかし日が出ると露は乾いて しまいますから、いずれそういうことが世界的に現われてくるわけです。」

昭和二十八年二月十七日(『御教え集』19号)

 

ウクライナ国歌

ウクライナの栄光は滅びず 自由も然り
運命は再び我等に微笑まん
朝日に散る霧の如く 敵は消え失せよう
我等が自由の土地を自らの手で治めるのだ

 

非常に興味深いですね。

その6

昭和29年12月11日

午前10時過ぎ、明主様は、長谷川ナミ、内藤らくの両氏を碧雲荘へお呼びになる。阿部執事、他側近奉仕者のいる処で「今日より長谷川ツタと命名する」と明主様は仰せられ、「長谷川についてる神様は非常に偉い神様であって、今日までの文化を造った神様である。それ故に特別にご浄霊するのである」と仰せられ、わるい方の御手で1分足らず長谷川氏を御浄霊遊ばす。その折、「これからは1千人位の浄霊をする時、1分とかからぬよ」と仰せられる。次いで「ツタよ、いよいよお前の御用が出来た。アメリカヘ行け。樋口喜代子は宣伝係とする」と御神命を仰せられる。長谷川氏は現状のままでいたいという執着のため、「自分が少しも望まぬことをおさせになるのですか」とご反問申し上げる。「私とて今の浄化は望まぬところであったよ」と仰せられ、長谷川は一言もなかったという。(後略)

 

水晶殿御遷座(録音から)
「私も何かしゃべりたいと思いますけれども、何しろ、やっとこれだけ声がね、これ、やるとね、やっぱ、頭がね、そりゃ響くんでね、ですから…あのー、阿部さんに、このー、私が言った事を書いてね、そして、えー、何しましたからね、それで、後でね、阿部さんから…話がありますから、よくそれを聞いて…えー、今後の方針を…立ててもらいたい…、でー、ただ一言ですけれども、いよいよ…このー、御神業の本筋に入って来た。ですからこれからね、色んな変った事が沢山出て、それにまごつかないように。もう一つは、このー、驚くようなね、段々今から出て来ますからね。それに就いてはね、あのー、解釈はしてありますがね、とにかく余程のね、肝っ魂をね、落着けないとね、うーん、中々…大変です。まっ、それだけ…お話しておきます」

「水晶殿は、地上天国の一部の雛形として、神様が御造りになるようさせられたものであって、これを神様はメシヤ教に造らせるようになされたものである。また、今後教団の組織にも多少の変革があるものと思う。この水晶殿は決して独占的のものではないので、一人でも多くの人々に天与の景勝地を楽しんでもらいたい。
最も御浄霊力の優れた人、信者を沢山お導きになられた方、神様に対して非常な御奉仕の強い方、こういった点を考えまして教団で決めるように」

水晶殿完成前に、資格基準を明らかにされ、人材を選ばれ教団組織を改める意向を阿部執事に示すと共に「顧問の皆さん、長い間ご苦労さん」と顧問の退任を示唆されていた。水晶殿で一夜を過ごされ、明主様のご意向として資格三条件が阿部執事から代読されたが、顧問制度廃止のご意向を執事は発表せず、顧問はそのまま居残る事となった。

 

この日、メシヤ様が水晶殿にお出ましになり、教団役員や教会長に御垂示あらせられた頃、つつじ山参道やメシヤ会館側の道路に参列した資格者や信者さん達は、水晶殿より空に向って立ち上る巨大な光の柱を拝した。初めは、水晶殿のメシヤ様の御座所辺りと思われる御位置から白雲のようなものが立ち上り、その下の方から次第に金色に変わることに、居並ぶ信者さん達が気付き、「アッ、御光だ!御光だ!」という声があっちこっちから上った。

また、その立ち上る御光の雲を拝しているうちに光の柱と変り、大空に届くが如き情景を拝しまして、参拝者一同、メシヤ様の御威徳に感動した。

 

 

昭和29年12月14日

(前略)この日、明主様は、長谷川ツタ氏に「アメリカ行きが早くなった。お前は神様がついて行くから身体だけ行けばよい」と仰せられ、教団へ渡航手続きを急ぐよう御命じ遊ばす。また、長谷川氏に、「お前は来たい時にいつでも来い」とお言葉を給わり、御浄霊を頂く。「今までは考えて物をするということもあったが、メシヤとなってからは、全くそれがなくなった。メシヤの都合で予定が急に変更することがあり、まるで分らぬ」と仰せられる。(後略)

 

 

昭和29年12月23日
明主様御降誕祭。
千手観音様の御神体を御奉斎。
明主様御着座遊ばされ、天津祝詞奏上。御神名不明。

(今後の御神名奉唱の回数に関して)
同日「今日以後の御神名の奉唱は一回だけにせよ」とのこと、教団本部での奉唱は一回、教会、集会所では二回(従前通り)、信者の家庭では三回と御神名の奉唱が変わる。

 

昭和30年1月1日

メシヤ様は、真夜中に大変厳しい御浄化を遊ばされ、午前4時頃便所へお出になった所、下痢を遊ばされる。かかる事は未だ例のなかった事で、メシヤ様は「厳しい浄化はこれが大浄化の型で、下痢は、これから流れる型であった故、皆気をつけるように」とお言葉を給う。また、「今年は思いがけない意外なことが起こる。特に、節分を過ぎると、大変だ。教団も引っくり返り、世界もひっくり返る事があるぞ」と仰せになる。

 

朝、渋井啓子夫人が新年のご挨拶にメシヤ様をお訪ねすると、「今年は、今朝神様からお知らせがあったが、大変無気味な事のある年である。即ち浄化である。教団に於ても変わり事がある」とのお言葉を給わる。

 

(元旦の御言葉)
「まだ大きな声が出ませんから、聞きとり難いだろうと思いますが、ともかくこれだけに治ったという事―皆さんの前で喋れるようになったという事は、非常に嬉しいと思ってます。色々な―病気やら奇蹟について、お話ししたい事―打明け、また教えるという事が沢山ありますが、それは、追々時の経つに従って、段々お話ししたりします。
とにかく今日は、新年のこういうお目出たい事をちょっとお話しして、これだけにしておきます」

 

昭和30年1月2日

メシヤ様は、「これからは想念が大事である。今は御光が非常に強くなっているから、私にしっかりお縋りし、ご守護をお願して御浄霊をすれば大抵な浄化は治せるよ」と仰せられる。

 

 

昭和30年1月6日

メシヤ様は、長谷川氏を前にして、「今に皆、この人(奥様の事を指される)の世話になるよ」と仰せになられる。また、「これから、貴方方の世が来ますよ」と仰せられる。

 

 

昭和30年1月7日

「七草は薬毒を意味し、雑煮などすべて艮の大神様に対し奉る呪術の行事であって、最早これも許されぬ時期となった」と仰せられる。(中略)明主様は、お側の奉仕者に御用をお命じ遊ばされた。その奉仕者はその事がよく理解できず、お尋ね申し上げた所、「聞き返すというのは恐怖症にかかっているんだよ」と仰せられ、「もっと伸び伸びと誠をもってやればよい」とお諭しあらせられる。

 

 

昭和30年1月14日

(前略)予定より少し遅れて御料理をお出し申し上げる。明主様は時間を守らなかった事を厳しくお叱り遊ばされ、「いつも馬車馬のように私を見つめていなければならない。よそ見してはいけない」とご注意頂く。(後略)

 

 

昭和30年1月22日

メシヤ様は、「私のまねをしなさい。私はそんな事はしないだろう。もっとしっかりしなさい」とのお言葉。「御神書を読んでいるのか」「はい、読ませて戴いております」「御神書にそんな事は書いてないがなあ」と仰せられる。

 

 

昭和30年1月23日~31日
連夜「ハレルヤコーラス」のレコードを御鑑賞。


昭和30年1月25日

「春の大祭に信者全部にハレルヤコーラスを歌わせる」と仰せられ、合唱練習をするようご指示遊ばす。


昭和30年2月4日

(立春祭の御言葉)
「今日は、本当に久しぶりで、やっとこれだけ喋れるようになった。ですから、お喋りしたいことは沢山ありますが、まだ、頭が少し…。なにしろ、あんまり、大きい声を出すたびに、頭へ響くんです。ですから、もう少し回復して、それから大いに…それも長いことはないと思いますが…それまで、まあ、やっとこの程度で我慢してもらいます。
で、なにしろ、こういった不思議な病気というものは、すごくなんとも言えん、珍しい体験をしたわけです。もう、喋れるようになったら、実に奇想天外な事をお話しするとは思うんですが、それだけに、楽しみにしていてもらいたいと思うんですが。そんなようなわけで、あんまりお喋りできないんで、今日はこの程度ですまして」

同日、「春の大祭に合唱するハレルヤコーラスは原語で歌うように」との御指示遊ばす。

 

 

昭和30年2月5日

メシヤ様は、血を吐くご浄化を遊ばされ、「今に非常に浄化が厳しくなり、一度に血を吐いて死ぬ者も出るであろう」と仰せられる。

 

 

昭和30年2月8日
色絵藤花文茶壷御入手。


昭和30年2月10日

午後3時33分、御昇天遊ばされる。

その5

昭和29年8月1日

メシヤ様は、「現在の体の状態では、まだメシヤとしての活動を十分に尽されない感があるから従来通り明主の言葉にて唱えるように」と阿部執事へ仰せられ、栄光紙にその旨を発表される。

 

 

昭和29年8月8日

朝、お側奉仕者の佐藤氏は、お茶をお出しすべく用意して「どこに置かして頂きましょうか」と申し上げたところ、丁度明主様のお手はふさがっており、代わって利見氏が、「そこに置いといて下さい。後、私からお出しさせて頂きます」という。佐藤はお側にお茶をおのせする台が見当たらないため、お盆にのせたお茶をそのまま畳の上に置き、下ろうとした処、明主様より「神様に差し上げるお茶を畳の上に置くとは何事だ。すぐ下がれ」と仰せになられる。佐藤はもうお側奉仕はお許し頂けないと思い、帰宅する予定でいたところ、阿部執事になだめられ、お勝手奉仕を努めることになる。

 

午後1時、樋ロヒメ氏はメシヤ様にお呼び頂き、お側奉仕を努める。メシヤ様にお出ししたアイスクリームが生臭く、製造に関わった者2名をお呼びになられ、1名は奉仕をとかれ、あと1名は平素の奉仕振りを評価されお許しを頂く。メシヤ様は「如何なる奉仕でも、誠と気配りが出来ぬ者は御用に使うわけにはいかぬ」と仰せられる。

 

 

昭和29年9月13日

明主様は、お側奉仕者に「物事は総て即刻主義をとれ」と仰せになり、御用を迅速に対応する在り方を御教え頂く。また、「常識をもって御神書以外のものも読め」と仰せになり、新聞や雑誌、一般書籍などに親しみ、巾広く教養を身につけることを御教え頂く。

 

 

昭和29年9月18日

(前略)途中、利見氏が台風の予報をお知らせする。その前に明主様より、「台風の予報はまだか」とお尋ねになられた。利見氏が、「今、お知らせしようと思っていました」と申し上げる。すると、「思っていただけでは何にもならない。私がお前に、指輪をやろうと思っているが、さあ、お前礼を言いなさい」と仰せられてお笑いになられた。大森氏が代わって「有難過ぎて、何とお礼申し上げてよいやら、お礼の申し上げようもございません」と答えたので、一同大笑いとなる。

 

 

昭和29年9月27日

午後5時にメシヤ様はお出ましになり、(中略)大草管長など教団幹部がお迎えし、大祭終了の御挨拶を申し上げる。その折、メシヤ様はニッコリ遊ばされ、お頭の黒髪をお見せになり「何しろ赤ん坊だから、何も言えません」と仰せになられる。

 

その後、早雲道路(上る)を通られて、美術館本館にお入りになられるその折、メシヤ様は、尾西氏を呼ばれ、「大○栄○に、最後の審判が近づいている、救われたければ私のいうことを素直に聞かなければならない、世界人類を救うものが、そんなことでは駄目だ、と伝えよ」と仰せられる。

 

 

昭和29年9月28日

メシヤ様は、美術品を御覧遊ばした後、「尾西」とお呼びになり、「ちょっとここへ来なさい」とのお言葉なので、早速御前に参ると、「大森が私の言うことを聞かないで、実行していないのを見ていて、何故忠告しないのか。私が大森に言っていたのを聞いていたろう」とのお叱り、何と申し上げてよいやらわからないので黙っていたら、「お前、返事もしないのか」とのお叱り、唯々、「申し訳ありません」と申し上げると、「私の言うことが聞けないようではもうクビだ」とのお言葉。阿部執事の「これからもっと監督いたしますから」とおとりなしで、「それでは今後の様子を見よう」とのお言葉にて、お許しいただく。後で、阿部執事と大森氏と尾西氏を前にして「お前たちは知らないだろうけど、救世教の信者でも最後の審判によって残される者は少ないんだぞ。それなのに、そんな気持でいたら、亡びるよりほかにないではないか。救われたいのなら、もっと心を入れかえなければならない」とお言葉を頂き、心から御詫びを申し上げる。(中略)

 

青邨の「厳島」をお見せすると、「ほう、これは私は見なかった、初めてだ」とのお言葉。そして、「何時、買入れていくらだったのか調べなさい」「電話があるだろう、今すぐしなさい」とのお言葉、太田氏は4時お出ましの時に、「すぐ行って参ります」と申し上げると、お側の利見氏を振り返られて「これを即刻主義と言うんだ」と仰せられてお笑いになり、「ねえ、尾西さん、さっきのことでも即刻主義でやれば、何もあんな問題は起きなかったのに」とのお言葉、「はい、申し訳ありません」とお詫び申し上げ、明主様が本当に笑顔で仰せられるので、こちらも笑いながらもお言葉有りがたく、殊に“さん付け”で呼ばれるのには、全く何と申し上げてよいやら、有り難い極みである。

 

 

昭和29年10月6日

御近況 阿部晴三
(メシヤ仮祝典後の御浄化とごてんもんと御頭髪に関して)
御浄化の強くあらせらるるため、御頭部の方に、あるいは御足の方に、御苦痛のあられたことも屡々あり、その為殆んど御睡眠のなかったこともあり、御食事も全く御摂りにならなかったり、全くの流動物だけのことや全くの野菜食のこともありまして、御生誕後間もない御方の御生育の御過程を経られる御様子にも拝され、又他面には生活におきましての色々な型とも申し上ぐべき事をなされた御様子でもありました。
次に御神業に関することでありますが、御浄化中におきましても一日の御休みもなく、次々に御神苑内に起こっておりまする色々の型の御経輪を行わせられました御模様で、これについては、いずれ詳細を皆様に御発表になられると仰せられていらっしゃいます。
御神苑内を御散策なされるのでありますが、絶えず「信者さん方の御参詣の際にはどの程度に見られるだろうか」「次の参詣日には満開になるだろうか」等々、何時でも御気にかけられ「もっとも状況のよい時に皆さん方が眺められるとよろしいが」と仰せられていらっしゃいます。
六月十五日熱海メシヤ会館で申し上げました、明主様の御手の筋でございますが、その後もはっきり現われており、最近は拇指の第一関節にまで筋が現われて参りました。六月十五日当時は、第二関節にだけ現われておったのでございました。更に最も驚くべきことは、あの白であらせられた御頭髪が段々黒くなられて参った事でありまして、隔日毎にお手入れに参っておりまする理髪をする人が驚いている程でございます。

 

昭和29年11月1日

この頃からメシヤ様は、お側の奉仕者たちに「正直になれ」ということにお力をお入れ遊ばす。奉仕者がご報告申し上げる時、ちょっと言葉がつまると、「嘘を言っている」とご指摘になられた。本人としては嘘をついているわけではないが、「嘘だ」と仰せられると、余計に緊張し、どぎまぎしてしまう。次の言葉が出なかったりすると、「人間は嘘はいかん。私は嘘をつく人間は許せない。正直人間に造り直すのだ」と仰せになられる。従って奉仕者は嘘がないように努め、いい勉強になったという。この正直な人間をつくるということはご昇天まで力をお入れ遊ばす。気温が低く、お部屋の暖房のために、小林清太郎を始め奉仕者は午前2時に起床し、終日大釜で湯をわかし、ゆたんぽをいくつも用意し、お部屋に配置する。この湯わかしは明主様の御昇天の日まで続けられた。(太田俊次)

 

 

昭和29年11月3日

メシヤ様は、一週間に亘って続いた下痢と痰、咳のご浄化により御体調が悪く、全くご食欲がないご様子であらせられる。午前10時頃、奥様、おば様をお呼びになり、「朝から食欲がないから駄目かも知れない。体熱がでればよいが、出なければ駄目だ。死ぬかもしれないのでこれから私の気持ちを言うから」と、御遺言様のことを仰せられた模様である。

 

 

昭和29年11月6日

メシヤ様は、「紙は神に通じる。だから紙を粗末にしたら、結局神様を粗末にすることになる。紙を無駄に捨てたり、無駄な使い方をしないようによく気をつけなければならない」と仰せられる。

 

 

昭和29年11月16日

メシヤ様への朝のご挨拶は8時と決められ、お側奉仕者は、その時間となると、揃ってご挨拶申し上げた。その都度、メシヤ様は、二言三言大事なご垂示を遊ばされた。この朝は「キリスト教が開教した頃は、キリストが奇蹟を現わした。次いでその弟子たちも聖書にあるような奇蹟を現わした。ところが、その次の世代になると、信仰を理論化し、教義を中心にした伝導が行われるようになった。そのため今日のように説教が中心になり、宗教としての活力がなくなってしまった。メシヤ教に於ても、浄霊による人類の救済活動を中心にして進めなければ、浄霊の力が弱くなり、いつしかキリスト教と同じ轍を踏むことになる」と仰せられる。