明烏ど阿呆日記

徒然に考察する岡田茂吉思想とこれから

令和のミロクの後

「天国の礎」に昭和23年ご執筆の「二十一世紀」というみ教えがありますが、ここに掲載されているのは実は一部で、本来は前に「序文」があり、後に「悪なき社会」と「政治」が続きます。未完成の原稿であるらしいので、本文だけを掲載したのでしょう。

 

因みに序文は以下の通りです。

 

序文

 私の常にとなえる地上天国とはいかなる世界であろうかという事は、よく聞かれるのであるが、これについて私は一九二六年神示によって知り得た一世紀後の世界の状態であるが、今まで幾度書こうと思ったが、どうも時期尚早のような気がして今日に至ったのである。ところが最近に至って書かなければならない時期到来をしきりに感ずるまま、ここにペンを執る事になったのである。しからばこの神示の未来記とは果して実現さるべきや否や、これは読者の想像に任せるが、私としては必ず実現すべき事を確信するのである。
 そうしてここで断っておきたい事は、読者が百年間眠っていたところ、ようやく眼が醒め、それと同時にあまりに世界が変った事に驚いたのである、という事を仮定して書いたものであるから、読者はその積りで読まれたい事である。

 

明主様は決まった時日を含む予言は必ず外れるとおっしゃっていますから、1926年に一世紀後の未来の様子を知らされたといっても、ちょうど百年後の2026年にミロクの世が出来ているとは限らないのですが、前回書いた事柄を鑑みると、令和5、6、7年ミロクの翌年の2026年。自ずとその期待は湧いてきてしまいます。

特にこの頃、都市伝説界隈などでは2023年に世界にとんでもないことが起こるとか、2025年に日本が滅亡するとか、コロナ禍も相まって人々の不安を象徴するような話がまことしやかに広まっているようで、それらに接するたびに大浄化・大峠の御教えに思いを馳せると同時に、「でも2026年にはミロクの世になってるかもだし」と呑気に考えてしまうことも正直ありました。

 

でも現在の世界情勢からして、いくら何でも2026年は早すぎるだろうかと思っていたところ、先日またこの御教えを目にしました。そこでふと気づいたことは、ご神示を受けられたのは1926年ですが、ご執筆されたのは昭和23年、つまり1948年だということです。

ひょっとして、1948年から百年後、ということはあり得るだろうか?という考えが浮かびました。

2048年。いったいどんな意味がある年だろうと思い、何気なく調べてみて驚いたのは、2048年は令和30年にあたるのです。

 

いわずもがな、明主様は昭和30年3月3日に「メシヤ降誕本祝典」を行う計画をされていましたが、2月10日に御昇天となりました。

当時実現しなかった「メシヤ降誕本祝典」を、その後複数の団体が独自に執り行うということがあったようです。そのたびにそれらの団体内では大きな意味付けがなされ、御神業の一大イベントであるとの盛り上がりが当然あったようですが、過ぎてしまえば、特にその他の団体にしてみれば、そんなことがあったの?くらいの認識に終わってしまった感が否めません。個人の感想ですが。

 

そしてこれはあくまで個人の妄想ですが、明主様系団体内のみならず、全世界的にメシヤの力が顕かとなり、あまねくメシヤ降誕を祝うようになるでしょうか、2048年には??

 

私がそれまで生きているかは微妙ですが。2026年だったら大丈夫かと思ったんですけど。

 

もう一つ、ご神示を受けられてから22年後にやっとご執筆になられたにもかかわらず、このみ教えが何故未完成、未発表のままとなったのかという疑問も残りますが、これは私に考察できるレベルをはるかに超えているかと思います。

2023年からの五六七

「神智の光」の中に以下の記述があります。

 

丑寅(うしとら)の年(昭和二十四、五年の丑寅)

 今年は丑年で古来から丑寅は悪年のように言われておりますが、本年の節分は特別に何か意義が有りますか。御伺い致します。

 

 悪い年というのは本当は良い年である。それを悪いというのは、人間がろくな事をしていないからである。
 丑寅は非常に良い。浄化の強い霊気が来る。今年来年の丑寅は非常に意味があり、今迄で一番意味がある。極く古い時代に国常立尊様は押込められ、艮の金神となられ閻魔大王になられた。審判の神で徹底的浄化をさるる神で、世の終りに審判をされる。それがキリストの言う最後の審判である。それが今近づきつつある。今年来年はそういう時が迫って来ている。そういう意義がある。(S24)

 

「神智の光」の別のところには「十二支は支那で出来たもので、無意味ではないが、大して意味はない…私は問題にせぬ」とのお言葉がありますので、重要視しすぎるのは控えるべきだと思いますが、興味深い部分もありますのでまとめてみました。

 

昭和25、26、27年(1950、51、52年)は五、六、七であり現界が昼間になる、新しくなると「神智の光」にありますが、丑寅は昭和24、25年で、一年オーバーラップしています。令和最初の丑寅は令和3、4年(2021、22年)で、令和5年からの五六七には掛かっていませんが、非常に近いですね。

 

令和5、6、7年の五六七が終わった翌年は2026年で、明主様が百年後の世界を描写したとされる「二十一世紀」のご論文ご執筆からちょうど百年目です。

 

丑寅の過ぎた今年令和5年は卯年。方角では真東を指します。東方の光を思わせますね。卯、辰、巳の五六七の翌年令和8年は午年。明主様も午年のお生まれですが、時刻では真昼の12時。昼の時代の到来が現界で完全に明らかになるということでしょうか。

 

その後、令和9、10年は未申(ひつじさる)。艮の金神国常立尊の妻神豊雲野尊(とよくもぬのみこと)は「未申の金神」です。世界的大浄化の後の物質的繁栄を意味するのでしょうか。

 

因みに明主様が鋸山でご啓示を受けられた昭和6年(1931年)からちょうど百年目の2031年は亥年。十二支最後の年です。その前の戌年と続けて戌亥は乾とも書き、乾坤山に通じますね。

 

乾坤とは方角の乾(北西)と坤(南西)という意味のほか、乾は太陽、坤は月を指すこともあり、天と地、またその間人の住むところ、という意味もあります。

 

 

ロシア

「それでソ連は、ロシアと言いますが、これは露です。そこで太陽が出ようとする夜明けには露が一番多く大地に溜まるわけです。しかし日が出ると露は乾いて しまいますから、いずれそういうことが世界的に現われてくるわけです。」

                  昭和二十八年二月十七日(『御教え集』19号)

 

ウクライナ国歌

ウクライナの栄光は滅びず 自由も然り
運命は再び我等に微笑まん
朝日に散る霧の如く 敵は消え失せよう
我等が自由の土地を自らの手で治めるのだ

 

非常に興味深いですね。

その6

昭和29年12月11日

午前10時過ぎ、明主様は、長谷川ナミ、内藤らくの両氏を碧雲荘へお呼びになる。阿部執事、他側近奉仕者のいる処で「今日より長谷川ツタと命名する」と明主様は仰せられ、「長谷川についてる神様は非常に偉い神様であって、今日までの文化を造った神様である。それ故に特別にご浄霊するのである」と仰せられ、わるい方の御手で1分足らず長谷川氏を御浄霊遊ばす。その折、「これからは1千人位の浄霊をする時、1分とかからぬよ」と仰せられる。次いで「ツタよ、いよいよお前の御用が出来た。アメリカヘ行け。樋口喜代子は宣伝係とする」と御神命を仰せられる。長谷川氏は現状のままでいたいという執着のため、「自分が少しも望まぬことをおさせになるのですか」とご反問申し上げる。「私とて今の浄化は望まぬところであったよ」と仰せられ、長谷川は一言もなかったという。(後略)

 

水晶殿御遷座(録音から)
「私も何かしゃべりたいと思いますけれども、何しろ、やっとこれだけ声がね、これ、やるとね、やっぱ、頭がね、そりゃ響くんでね、ですから…あのー、阿部さんに、このー、私が言った事を書いてね、そして、えー、何しましたからね、それで、後でね、阿部さんから…話がありますから、よくそれを聞いて…えー、今後の方針を…立ててもらいたい…、でー、ただ一言ですけれども、いよいよ…このー、御神業の本筋に入って来た。ですからこれからね、色んな変った事が沢山出て、それにまごつかないように。もう一つは、このー、驚くようなね、段々今から出て来ますからね。それに就いてはね、あのー、解釈はしてありますがね、とにかく余程のね、肝っ魂をね、落着けないとね、うーん、中々…大変です。まっ、それだけ…お話しておきます」

「水晶殿は、地上天国の一部の雛形として、神様が御造りになるようさせられたものであって、これを神様はメシヤ教に造らせるようになされたものである。また、今後教団の組織にも多少の変革があるものと思う。この水晶殿は決して独占的のものではないので、一人でも多くの人々に天与の景勝地を楽しんでもらいたい。
最も御浄霊力の優れた人、信者を沢山お導きになられた方、神様に対して非常な御奉仕の強い方、こういった点を考えまして教団で決めるように」

水晶殿完成前に、資格基準を明らかにされ、人材を選ばれ教団組織を改める意向を阿部執事に示すと共に「顧問の皆さん、長い間ご苦労さん」と顧問の退任を示唆されていた。水晶殿で一夜を過ごされ、明主様のご意向として資格三条件が阿部執事から代読されたが、顧問制度廃止のご意向を執事は発表せず、顧問はそのまま居残る事となった。

 

この日、メシヤ様が水晶殿にお出ましになり、教団役員や教会長に御垂示あらせられた頃、つつじ山参道やメシヤ会館側の道路に参列した資格者や信者さん達は、水晶殿より空に向って立ち上る巨大な光の柱を拝した。初めは、水晶殿のメシヤ様の御座所辺りと思われる御位置から白雲のようなものが立ち上り、その下の方から次第に金色に変わることに、居並ぶ信者さん達が気付き、「アッ、御光だ!御光だ!」という声があっちこっちから上った。

また、その立ち上る御光の雲を拝しているうちに光の柱と変り、大空に届くが如き情景を拝しまして、参拝者一同、メシヤ様の御威徳に感動した。

 

 

昭和29年12月14日

(前略)この日、明主様は、長谷川ツタ氏に「アメリカ行きが早くなった。お前は神様がついて行くから身体だけ行けばよい」と仰せられ、教団へ渡航手続きを急ぐよう御命じ遊ばす。また、長谷川氏に、「お前は来たい時にいつでも来い」とお言葉を給わり、御浄霊を頂く。「今までは考えて物をするということもあったが、メシヤとなってからは、全くそれがなくなった。メシヤの都合で予定が急に変更することがあり、まるで分らぬ」と仰せられる。(後略)

 

 

昭和29年12月23日
明主様御降誕祭。
千手観音様の御神体を御奉斎。
明主様御着座遊ばされ、天津祝詞奏上。御神名不明。

(今後の御神名奉唱の回数に関して)
同日「今日以後の御神名の奉唱は一回だけにせよ」とのこと、教団本部での奉唱は一回、教会、集会所では二回(従前通り)、信者の家庭では三回と御神名の奉唱が変わる。

 

昭和30年1月1日

メシヤ様は、真夜中に大変厳しい御浄化を遊ばされ、午前4時頃便所へお出になった所、下痢を遊ばされる。かかる事は未だ例のなかった事で、メシヤ様は「厳しい浄化はこれが大浄化の型で、下痢は、これから流れる型であった故、皆気をつけるように」とお言葉を給う。また、「今年は思いがけない意外なことが起こる。特に、節分を過ぎると、大変だ。教団も引っくり返り、世界もひっくり返る事があるぞ」と仰せになる。

 

朝、渋井啓子夫人が新年のご挨拶にメシヤ様をお訪ねすると、「今年は、今朝神様からお知らせがあったが、大変無気味な事のある年である。即ち浄化である。教団に於ても変わり事がある」とのお言葉を給わる。

 

(元旦の御言葉)
「まだ大きな声が出ませんから、聞きとり難いだろうと思いますが、ともかくこれだけに治ったという事―皆さんの前で喋れるようになったという事は、非常に嬉しいと思ってます。色々な―病気やら奇蹟について、お話ししたい事―打明け、また教えるという事が沢山ありますが、それは、追々時の経つに従って、段々お話ししたりします。
とにかく今日は、新年のこういうお目出たい事をちょっとお話しして、これだけにしておきます」

 

昭和30年1月2日

メシヤ様は、「これからは想念が大事である。今は御光が非常に強くなっているから、私にしっかりお縋りし、ご守護をお願して御浄霊をすれば大抵な浄化は治せるよ」と仰せられる。

 

 

昭和30年1月6日

メシヤ様は、長谷川氏を前にして、「今に皆、この人(奥様の事を指される)の世話になるよ」と仰せになられる。また、「これから、貴方方の世が来ますよ」と仰せられる。

 

 

昭和30年1月7日

「七草は薬毒を意味し、雑煮などすべて艮の大神様に対し奉る呪術の行事であって、最早これも許されぬ時期となった」と仰せられる。(中略)明主様は、お側の奉仕者に御用をお命じ遊ばされた。その奉仕者はその事がよく理解できず、お尋ね申し上げた所、「聞き返すというのは恐怖症にかかっているんだよ」と仰せられ、「もっと伸び伸びと誠をもってやればよい」とお諭しあらせられる。

 

 

昭和30年1月14日

(前略)予定より少し遅れて御料理をお出し申し上げる。明主様は時間を守らなかった事を厳しくお叱り遊ばされ、「いつも馬車馬のように私を見つめていなければならない。よそ見してはいけない」とご注意頂く。(後略)

 

 

昭和30年1月22日

メシヤ様は、「私のまねをしなさい。私はそんな事はしないだろう。もっとしっかりしなさい」とのお言葉。「御神書を読んでいるのか」「はい、読ませて戴いております」「御神書にそんな事は書いてないがなあ」と仰せられる。

 

 

昭和30年1月23日~31日
連夜「ハレルヤコーラス」のレコードを御鑑賞。


昭和30年1月25日

「春の大祭に信者全部にハレルヤコーラスを歌わせる」と仰せられ、合唱練習をするようご指示遊ばす。


昭和30年2月4日

(立春祭の御言葉)
「今日は、本当に久しぶりで、やっとこれだけ喋れるようになった。ですから、お喋りしたいことは沢山ありますが、まだ、頭が少し…。なにしろ、あんまり、大きい声を出すたびに、頭へ響くんです。ですから、もう少し回復して、それから大いに…それも長いことはないと思いますが…それまで、まあ、やっとこの程度で我慢してもらいます。
で、なにしろ、こういった不思議な病気というものは、すごくなんとも言えん、珍しい体験をしたわけです。もう、喋れるようになったら、実に奇想天外な事をお話しするとは思うんですが、それだけに、楽しみにしていてもらいたいと思うんですが。そんなようなわけで、あんまりお喋りできないんで、今日はこの程度ですまして」

同日、「春の大祭に合唱するハレルヤコーラスは原語で歌うように」との御指示遊ばす。

 

 

昭和30年2月5日

メシヤ様は、血を吐くご浄化を遊ばされ、「今に非常に浄化が厳しくなり、一度に血を吐いて死ぬ者も出るであろう」と仰せられる。

 

 

昭和30年2月8日
色絵藤花文茶壷御入手。


昭和30年2月10日

午後3時33分、御昇天遊ばされる。

その5

昭和29年8月1日

メシヤ様は、「現在の体の状態では、まだメシヤとしての活動を十分に尽されない感があるから従来通り明主の言葉にて唱えるように」と阿部執事へ仰せられ、栄光紙にその旨を発表される。

 

 

昭和29年8月8日

朝、お側奉仕者の佐藤氏は、お茶をお出しすべく用意して「どこに置かして頂きましょうか」と申し上げたところ、丁度明主様のお手はふさがっており、代わって利見氏が、「そこに置いといて下さい。後、私からお出しさせて頂きます」という。佐藤はお側にお茶をおのせする台が見当たらないため、お盆にのせたお茶をそのまま畳の上に置き、下ろうとした処、明主様より「神様に差し上げるお茶を畳の上に置くとは何事だ。すぐ下がれ」と仰せになられる。佐藤はもうお側奉仕はお許し頂けないと思い、帰宅する予定でいたところ、阿部執事になだめられ、お勝手奉仕を努めることになる。

 

午後1時、樋ロヒメ氏はメシヤ様にお呼び頂き、お側奉仕を努める。メシヤ様にお出ししたアイスクリームが生臭く、製造に関わった者2名をお呼びになられ、1名は奉仕をとかれ、あと1名は平素の奉仕振りを評価されお許しを頂く。メシヤ様は「如何なる奉仕でも、誠と気配りが出来ぬ者は御用に使うわけにはいかぬ」と仰せられる。

 

 

昭和29年9月13日

明主様は、お側奉仕者に「物事は総て即刻主義をとれ」と仰せになり、御用を迅速に対応する在り方を御教え頂く。また、「常識をもって御神書以外のものも読め」と仰せになり、新聞や雑誌、一般書籍などに親しみ、巾広く教養を身につけることを御教え頂く。

 

 

昭和29年9月18日

(前略)途中、利見氏が台風の予報をお知らせする。その前に明主様より、「台風の予報はまだか」とお尋ねになられた。利見氏が、「今、お知らせしようと思っていました」と申し上げる。すると、「思っていただけでは何にもならない。私がお前に、指輪をやろうと思っているが、さあ、お前礼を言いなさい」と仰せられてお笑いになられた。大森氏が代わって「有難過ぎて、何とお礼申し上げてよいやら、お礼の申し上げようもございません」と答えたので、一同大笑いとなる。

 

 

昭和29年9月27日

午後5時にメシヤ様はお出ましになり、(中略)大草管長など教団幹部がお迎えし、大祭終了の御挨拶を申し上げる。その折、メシヤ様はニッコリ遊ばされ、お頭の黒髪をお見せになり「何しろ赤ん坊だから、何も言えません」と仰せになられる。

 

その後、早雲道路(上る)を通られて、美術館本館にお入りになられるその折、メシヤ様は、尾西氏を呼ばれ、「大○栄○に、最後の審判が近づいている、救われたければ私のいうことを素直に聞かなければならない、世界人類を救うものが、そんなことでは駄目だ、と伝えよ」と仰せられる。

 

 

昭和29年9月28日

メシヤ様は、美術品を御覧遊ばした後、「尾西」とお呼びになり、「ちょっとここへ来なさい」とのお言葉なので、早速御前に参ると、「大森が私の言うことを聞かないで、実行していないのを見ていて、何故忠告しないのか。私が大森に言っていたのを聞いていたろう」とのお叱り、何と申し上げてよいやらわからないので黙っていたら、「お前、返事もしないのか」とのお叱り、唯々、「申し訳ありません」と申し上げると、「私の言うことが聞けないようではもうクビだ」とのお言葉。阿部執事の「これからもっと監督いたしますから」とおとりなしで、「それでは今後の様子を見よう」とのお言葉にて、お許しいただく。後で、阿部執事と大森氏と尾西氏を前にして「お前たちは知らないだろうけど、救世教の信者でも最後の審判によって残される者は少ないんだぞ。それなのに、そんな気持でいたら、亡びるよりほかにないではないか。救われたいのなら、もっと心を入れかえなければならない」とお言葉を頂き、心から御詫びを申し上げる。(中略)

 

青邨の「厳島」をお見せすると、「ほう、これは私は見なかった、初めてだ」とのお言葉。そして、「何時、買入れていくらだったのか調べなさい」「電話があるだろう、今すぐしなさい」とのお言葉、太田氏は4時お出ましの時に、「すぐ行って参ります」と申し上げると、お側の利見氏を振り返られて「これを即刻主義と言うんだ」と仰せられてお笑いになり、「ねえ、尾西さん、さっきのことでも即刻主義でやれば、何もあんな問題は起きなかったのに」とのお言葉、「はい、申し訳ありません」とお詫び申し上げ、明主様が本当に笑顔で仰せられるので、こちらも笑いながらもお言葉有りがたく、殊に“さん付け”で呼ばれるのには、全く何と申し上げてよいやら、有り難い極みである。

 

 

昭和29年10月6日

御近況 阿部晴三
(メシヤ仮祝典後の御浄化とごてんもんと御頭髪に関して)
御浄化の強くあらせらるるため、御頭部の方に、あるいは御足の方に、御苦痛のあられたことも屡々あり、その為殆んど御睡眠のなかったこともあり、御食事も全く御摂りにならなかったり、全くの流動物だけのことや全くの野菜食のこともありまして、御生誕後間もない御方の御生育の御過程を経られる御様子にも拝され、又他面には生活におきましての色々な型とも申し上ぐべき事をなされた御様子でもありました。
次に御神業に関することでありますが、御浄化中におきましても一日の御休みもなく、次々に御神苑内に起こっておりまする色々の型の御経輪を行わせられました御模様で、これについては、いずれ詳細を皆様に御発表になられると仰せられていらっしゃいます。
御神苑内を御散策なされるのでありますが、絶えず「信者さん方の御参詣の際にはどの程度に見られるだろうか」「次の参詣日には満開になるだろうか」等々、何時でも御気にかけられ「もっとも状況のよい時に皆さん方が眺められるとよろしいが」と仰せられていらっしゃいます。
六月十五日熱海メシヤ会館で申し上げました、明主様の御手の筋でございますが、その後もはっきり現われており、最近は拇指の第一関節にまで筋が現われて参りました。六月十五日当時は、第二関節にだけ現われておったのでございました。更に最も驚くべきことは、あの白であらせられた御頭髪が段々黒くなられて参った事でありまして、隔日毎にお手入れに参っておりまする理髪をする人が驚いている程でございます。

 

昭和29年11月1日

この頃からメシヤ様は、お側の奉仕者たちに「正直になれ」ということにお力をお入れ遊ばす。奉仕者がご報告申し上げる時、ちょっと言葉がつまると、「嘘を言っている」とご指摘になられた。本人としては嘘をついているわけではないが、「嘘だ」と仰せられると、余計に緊張し、どぎまぎしてしまう。次の言葉が出なかったりすると、「人間は嘘はいかん。私は嘘をつく人間は許せない。正直人間に造り直すのだ」と仰せになられる。従って奉仕者は嘘がないように努め、いい勉強になったという。この正直な人間をつくるということはご昇天まで力をお入れ遊ばす。気温が低く、お部屋の暖房のために、小林清太郎を始め奉仕者は午前2時に起床し、終日大釜で湯をわかし、ゆたんぽをいくつも用意し、お部屋に配置する。この湯わかしは明主様の御昇天の日まで続けられた。(太田俊次)

 

 

昭和29年11月3日

メシヤ様は、一週間に亘って続いた下痢と痰、咳のご浄化により御体調が悪く、全くご食欲がないご様子であらせられる。午前10時頃、奥様、おば様をお呼びになり、「朝から食欲がないから駄目かも知れない。体熱がでればよいが、出なければ駄目だ。死ぬかもしれないのでこれから私の気持ちを言うから」と、御遺言様のことを仰せられた模様である。

 

 

昭和29年11月6日

メシヤ様は、「紙は神に通じる。だから紙を粗末にしたら、結局神様を粗末にすることになる。紙を無駄に捨てたり、無駄な使い方をしないようによく気をつけなければならない」と仰せられる。

 

 

昭和29年11月16日

メシヤ様への朝のご挨拶は8時と決められ、お側奉仕者は、その時間となると、揃ってご挨拶申し上げた。その都度、メシヤ様は、二言三言大事なご垂示を遊ばされた。この朝は「キリスト教が開教した頃は、キリストが奇蹟を現わした。次いでその弟子たちも聖書にあるような奇蹟を現わした。ところが、その次の世代になると、信仰を理論化し、教義を中心にした伝導が行われるようになった。そのため今日のように説教が中心になり、宗教としての活力がなくなってしまった。メシヤ教に於ても、浄霊による人類の救済活動を中心にして進めなければ、浄霊の力が弱くなり、いつしかキリスト教と同じ轍を踏むことになる」と仰せられる。

その4

昭和29年7月3日

角田美代子は神山荘で料理をお作りしている時、一寸した心得違いからガスが顔面にかかり、二目と見られない程に火傷する。その上、前掛で顔を庇ったのがくっついて、とれなくなる。阿部執事は角田氏を急ぎ日光殿の御神前へ連れていき、お詫びとご守護のお願いをしてご浄霊を取り次ぐ。その一方で、他のお勝手奉仕者も角田氏の火傷を心配し、お側奉仕の樋口氏を通してメシヤ様にご守護をお願いしてはと、使いの者が観山亭へ行く。樋口氏を通してメシヤ様にご守護をお願い申し上げる。程なく激しい痛みがおさまる。翌朝起きてみると、やけどのあとはすっきりと治り、前より顔の膚がきれいになっていた。

 

メシヤ様に角田は「私のように罪深い者が、ご祈願とご浄霊により、やけどのご浄化をこのようにご守護を頂きました。このご浄化で前より綺麗にならせて頂きました」とご報告を申し上げると、「これが唯一の見本だよ。これからは祈願が第一である」と仰せられる。「それから“私の様なものが”ということは、これは大いなる間違いである」とお叱り給わる。「謙虚と卑下と一緒にしてはいけない。謙虚であるべき所は謙虚たるべきだが、卑下はいけない。“自分のような者”という事は絶対に思ったリ言ったりしてはいけない。どんな人でも神の御子である。神様がおつくりになったものである。“自分のような者”と卑下するのはまるで神様に意見するような形となる。すべて神様がなされていることであるから自分勝手に自分を考えてはいけない。またお前を使っているのはわたしだ。わたしが使う者に“私のような者”と言えば神様は変な者を使っているという事になるのではないか」と御教え賜わる。

 

 

昭和29年7月4日

午前中、大草管長・松井顧問がメシヤ様を観山亭にお訪ねし、「今の社会情勢から見て、現身のメシヤ様の「御尊影」を御神体として礼拝させて頂けば官憲はどのように誤解するか分らない。従って、御神体を元の「大光明如来」にお掛け替えをお願いさせて頂きたい」と言上申し上げる。メシヤ様は「よろしい」と仰せ遊ばす。直ちに「御尊影」をお下げし、従来の「大光明如来」の御神体の御奉斎が行われる。(後略)

 

 

昭和29年7月5日

メシヤ様は聖地内を御散策の予定であらせられたが、雨のため中止遊ばす。メシヤ様は、樋口氏を呼ばれ、「部屋に活けてある山百合の匂いがあまりにも強いので捨てて来なさい」と仰せられる。捨て場所までご指示になられたので「ハイ、畏まいりました」とご返事申し上げる。お花を持ってお勝手まで来たところ、奥様にお会いする。「その花どうするの」と仰言ったので、「捨てに行くところです」と申し上げる。「チャンと活けてあるから神山荘で使う」と仰言られたため、「お願いします」と申し上げ、お勝手にお花をおいてお部屋に戻る。メシヤ様は奥様との会話が聞こえるはずがないのに、「今の花はどうした?」と仰せられる。樋口氏は吃驚し、ありのままに「実は奥様が神山荘の方であの花をお使いになる、とおっしゃったので、お勝手に置いてまいりました」と申し上げる。するとメシヤ様はすごくお叱りになられ、「私のすることは塵一つ、紙屑一つでも言った通りしなさい」と仰せられ、直ちにお詫びし下がらせて頂く。再度山百合を捨てるべくお勝手を出、阿部執事宅の前を通る時、阿部夫人より、「その花どうするの」と声がかかり、「捨てに行くところです」「きれいな花ね、誰かよその人にさしあげましょう。おいていきなさい」といわれ、あげてしまう。樋口氏は後になって、メシヤ様の仰せられた通りにしなかったことが、いつまでも気掛かりとなる。

 

 

昭和29年7月6日

午後1時、メシヤ様は樋口氏をお呼びになり、「きのうお前がやってたことは間違っている。咲見町へ行って修行せよ。毎日御神書を拝読せよ。神様は厳しいから少しの間違いも邪念も許されぬ。きっと又、ご奉仕のお許しがあるから楽しみに修行せよ。御教えのすべては、ご讃歌にあり、これを何遍も心をひそめて拝読すれば何が大切で、何をしなければならないか分かってくる」と御教え頂く。また、「お前の我の働きが信念になっており、とても性格が固いところがある。また、物事を決めてかかり、己の考え方で、他を振リ回すことが時に見られる。如何に気・心配るも神意に添わねば無駄である。一切を無にして、心よリ神を敬愛して生きよ。授かる幸せ、明るき幸せ、神の慈悲に感謝して生きよ」とおさとしの言葉賜る。更に、「水晶殿は、水晶世界の型である。水晶世界になれば、水晶の心にならねばならぬ。一寸の邪念があってもいけない。一切を無にしなくてはいけない。我があっては神意に添わない。その水晶の心となるように修行すれば、神様より素晴らしい力が頂ける」とご垂示あらせられる。

 

 

昭和29年7月9日

メシヤ様は「メシヤの降臨について世界に一辺に知れ亘ると邪神の妨害があり大変なことになる。メシヤの仕事が進むにつれて、メシヤが降臨したことが、後から分かるように神様はお仕組み遊ばされている」と仰せられる。

 

 

昭和29年7月11日

メシヤ様は「真に水晶世界になる時は、薬毒は一瞬にして全て消す。ただこの折多量に薬毒を注ぎ入る者は生命を失うこともある」と仰せられる。(中略)

 

お側奉仕の中村美智子氏は、お言葉通りに出来なかったためにメシヤ様よりお叱りを頂く。中村氏は、「私のこの愚かさは一生治らないのでございましょうか」と申し上げると、「そんなことはないよ。一生治らない者を神様はお手数をかけてお使いになる訳はないよ。人の名前によって働きが違う」と仰せになる。(後略)

 

 

昭和29年7月13日

メシヤ様は「人類救済のために余を真似よ」「メシヤ教の教えは厳しくなり、少しの間違いも許せない」と仰せになる。

 

 

昭和29年7月18日

メシヤ様は、吉村氏の信仰姿勢を見通され「信者は信仰が進むに従い信仰一途となる。それは大変いいことである。しかしその反面、社会性のない偏った人間性となりやすく、社会から見た場合常識のない人間に見える。大事なことは、信仰心があってそして信仰の臭みのつかない常識人になるように努めなくてはいけない」と御教えを賜わる。

 

 

昭和29年7月19日

吉村氏は、笑いの方に気をとられ、メシヤ様の命ぜられた御用に気付かなかったため、「私の顔をいつでも見つめ、いつでも御用に応えられるように神経を使っていなければならない」と厳しくご注意を頂く。

 

 

昭和29年7月20日

メシヤ様は、吉村氏に「御神書をよく拝読しているか」とお訊ねになる。「十分には出来ておりません」とお答えさせて頂くと、「しっかりと御神書を拝読しなければ神様から力は頂けない」と御教え頂く。

 

 

昭和29年7月25日
メシヤ様は、「30年3月3日にメシヤ御降誕祭を執り行う」とお決めになられた。その時のメシヤ様の御盛装は、御頭に王冠をいただき、御下着(聖徳太子の如き)には紫地に金の刺繍で鳳凰を描き、御上着は白地に金糸にて雲をあしらったものをご着用遊ばす事に決まった。

男18人、女18人がメシヤ様のお側に並びハレルヤコーラスを祭典で行うので、準備にかかるようにとの御指示。ハレルヤコーラスの演奏はNHK交響楽団に出演を依頼する事に決まる。(中略)

 

メシヤ様は、「いま毎日世界経綸を行っており、お側奉仕の者を始終変えているのは、それぞれ世界の型、民族の型になっているのである。今度は真に現実の御経綸なるが故に、神々もすべてお使いになって活動されるのである。ヨネは、アメリカの型故、唯物的であった。今度は唯物主義でもいけない。今までのことを改心して日本の型になってご奉仕が出来るように努めなければならない」と樋口氏に御垂示遊ばす。

 

 

昭和29年7月26日

メシヤ様は、「現実の破壊と創造は日々世界各地に於て行われている。将来、腰を抜かすような大きな経綸が行われる時、天地上下は引っ繰り返るのである。その時のために少しでも徳を積み、美しき行いをしておかなければならない。天地が引っ繰り返る程の大浄化が起きた時は、信者でも残るのは2割位は難しいであろう。しかし、本当に改心し善徳を積めば、その大峠も易々越せるのである。昭和29年6月15日から本当の世界歴史が始まったのである」と仰せられる。

 

 

昭和29年7月28日

樋ロヒメ氏、御命によりお側奉仕より下る。「自ら修行に努め、自分でこれならよいと思える程になったら来い」とお言葉を給わる。(後略)

 

 

昭和29年7月30日

メシヤ様は、竹の間に敷かれたお布団の上にお座り遊ばされ、お体を少し斜めになされ、「今にあそこが私の永久な住居になるんだ」と現在の奥津城の位置を指しながら仰せになられた。お側奉仕の利見氏は(新しい家でも建てられるのだろうか)くらいの軽い気持ちでお話を伺ったという。

その3

昭和29年6月1日

明主様は、お部屋より、次の間(会見の間)まで4回位歩くお稽古を遊ばす。歩き振りが一段とよくおなりになられる。明主様は、お疲れになられると、お椅子にお掛け遊ばされ、外の景色を御覧遊ばす。お庭に飛んで来る色々な鳥や蝶の飛び交う様子を御覧になりながら「ただ、ぼんやりとしているのが一番いい」と仰せられる。ご間食はお好みのものをよくお召し上り遊ばす。

午前11時、樋ロヨネ氏を咲見町仮本部より呼び戻される。明主様は樋口氏の因縁についてお話をされ、「これからは何事でも善意に解釈して素直にならなくてはいけない。お前は私と同じように素直な気持になれ。少しでも神様にお手数をかけぬようにせよ。そしてこれからは余分なことに気を回さないように頭を働かせることである。まごころをもって、気配り、心配りができぬようでは御用に使えぬ」とお教えになられた。そして明主様には非常にお厳しく、「寸毫も間違いは許さない」と仰せられた。(樋口)

 

 

昭和29年6月3日

「5日程前に気付いたのだが、手に世界を治める筋が現れた。このことは昭和6年6月15日に知らされていた」と再び側近に、掌に五本の筋が現れたことを仰せられていました。

 

 

昭和29年6月5日

本日役員、教会長など選ばれた者のみ明主様の御面謁を賜わることになった。御面謁は当初咲見町仮本部で行われる予定になっていたが、碧雲荘に変更され、バスにて約500名移動する。御面謁は午前11時に賜わることになっていたが、明主様は未だお休み遊ばされているといわれ、一同お待ち申し上げる。

 

11時30分過ぎ、「お庭へ入るように」と係の指示を受け、一同お庭へ移ると、筵が敷かれてあり、そこに整列する。やがて廊下の白いカーテンが開かれる。明主様は樋口氏の手をお取りになられて、お椅子の所までお歩き遊ばされ、御面謁者にお姿をお見せになられる。一同平伏する。

 

明主様お言葉

「ずいぶん若くなってるよ私の方は―メシヤ降誕と言ってね、メシヤが生まれたわけです。言葉だけでなく事実がそうなんですよ。私も驚いたんです。生まれ変わるというんじゃないですね。新しく生まれるわけですね。ところが、年寄りになって生まれるのは変ですが、いちばんおもしろいのは、皮膚が赤ん坊のように柔かくなる。それからこのとおり、髪の毛が生まれたと同じような―床屋がこれを見て、子どもの頭髪だと言うんです。だんだん白いのがなくなって、黒いのばかりです。いまに黒髪になりますよ。だから、神様はおおいに若返れと、そして、仕事をしなきゃならんというわけなんです。

それで、今度のことについては、もう奇蹟っていうどころじゃない、奇蹟以上の奇蹟がたくさんあったんですけども、さしつかえない点だけはだんだん発表します。

それで、このメシヤというのは、世界中で最高の位(クライ)なんです。西洋では王の王ということになってますが。キングオブキングスと言ってその位をもってるんです。だから、私が出てはじめて人類は救われるのです。たいへんな事件なんです。それで、いろいろ話がしたいけれども、何しろまだ生まれたての赤ん坊なんですから、あんまり面倒くさいと嫌で、簡単に、要点だけを話をしたつもりです。また、この十五日にもっと詳しい話ができると思いますので、きょうはこのへんにして―」

 

 

昭和29年6月15日

メシヤ降誕仮祝典。

メシヤ様に対し奉り、天津祝詞奏上、御神名天照皇大御神。

「明主様」から「メシヤ様」と御尊称申し上げる。

 

大草管長より「全信徒の皆様に、私から特に申し上げます。只今迄、私共信徒は「明主様」と呼び讃えて参ったのでありますが、今日この御祭りを期しまして「メシヤ様」と申し上げたいと存じます。その点、皆様の御了承を得たいと存ずるのであります。扨て今日の式典は、救世教の歴史に重大なる一頁を劃するものと、私は確信しているものであります。救世主の出現は、実に、遍く全世界人類の待望している処であります。これを西洋的に申し上げますれば「メシヤの降誕」であり、東洋的に申し上げますれば「弥勒下生」という事になると思うのあります。

この「救世主」の出現―即ち、救世主という言葉は、世界に於ける最高最貴の御方を指して申し上げるものと思われるのでありますが、日本で申し上げれば「天照皇大御神様」にも相応するのであると思われるのであります。

今日「メシヤ様」御降誕を御祝いするという意味におきまして、この盛大なる式典が、メシヤ会館に於て挙行されましたる事は、全信徒の皆様と共に、祝福と歓喜に堪えざる次第であります。又、今日は丁度天照皇大御神様の御誕生日に当る日であると申されて居る佳き日でありまして私共にとりまして、誠に歓喜と祝福に感無量なるを禁ずる能わざるものがあります。

今日「メシヤ様」よりは、皆様に、別に御言葉が御座いませんでしたが、それは御降誕間もない事であるとの意味におきましての御事である由であります。今日この式典が挙行されましたるメシヤ会館は、御覧の通り現在約90%の工事進捗を示して居リますが、来年の三月三日、水晶殿と共に、盛大なる完成式が執り行われる予定になって居ります。

このメシヤ会館の開館と共に、益々救世教が全世界に向って発展し、「メシヤ様」の地上天国建設の御聖業が、段々とこの世を幸福化するものと確信し、全信徒の皆様と共に、色々と御偉業の一端の御仕事に当たらせて戴いて、御恩の万分の一でも御返し申し上げる覚悟を以て邁進致したいと存ずるのであります。甚だ簡単でありますが、今日の祝典に当り、私の御挨拶として申し上げたる次第であります」

 

次いで阿部執事より「メシヤ様の御手の筋でございまして、いわゆる天下筋と申すのでございますか、左の御手の五本の御指にありやかに現われていらっしゃるのでございます。これは何と申し上げましたら宜しいか、「ごてんもん」とでも申し上げますか、あるいは「ごこう」とでも申し上ぐべきでしょうか。この事に関しては、五十年間も易学を専門にやっている方に御聞きしましたのですが、このおしるしは、神様が御現われになったという意味で、非常に珍しいことであります事、この度の御病気はそのおしるしが現われます為のものであった事、今後大変御長命に亘らせられます事、又御事業も更に更に新しく、沢山おやりになることになります事という返事でございました。どういう訳で神様がこのおしるしを御与えになったのでしょうかという事でございますが、昔から“メシヤは手に証を持って生まる”という言い伝えがあるのでございます」

 

ある側近奉仕者の言葉として

昭和29年6月15日、メシヤ降誕仮祝典を熱海のメシヤ会館でなさって、その日の夕方に箱根にいらっしゃいましたから、メシヤ様として生活をされたのは観山亭ですね。明主様は「私はメシヤとして最高の位についた。今日から皆で私のことをメシヤ様と言いなさい。私のことをメシヤ様と言えない者はここを出ていきなさい」とおっしやいました。そして「最高の位についたのだから、最高の言葉、最高の扱いをしなさい」と。

 

 

昭和29年6月17日

メシヤ様は、「太田を呼べ」と仰せになり、その連絡を受けて、太田氏は作業場から急ぎ駆けつける。メシヤ様は太田氏が足袋を履いていないことに気付かれ、「メシヤの前に出るのに下袋を履いていないとはどういうことだ。長年私の元で奉仕しているためにいまも同じ気持ちでいるのだろう。私がメシヤとなった今、想念を改めて奉仕をしなければ、今後お許しにならなくなる」と厳しく仰せになられる。太田氏はお詫び申し上げると共に、他の奉仕者にもメシヤ様としての受け止めを確認する。

 

 

昭和29年6月22日

メシヤ様は、「日光殿のメシヤ観音のご神体を私の写真(御尊影)に換えよ」と仰せられる。阿部執事は多賀氏を呼び、本金のお額を東京のデパートで求めて来るよう指示する。

 

 

昭和29年6月24日

日光殿の「大光明如来」の御神体は「御尊影」にお取替えとなり、前の御簾を下まで下げられる。(中略)御神体が「御尊影」に換わった後、箱根夏期事務所に於て教団幹部と顧問の松井誠勲との間で御尊影の御奉斎について喧々諤々の論議が戦わされた。松井氏の論は、「天皇陛下のお写真と同じようにメシヤ様の写真をご奉斎することは右翼団体に乗ぜられる恐れあり、しかも現在右翼団体の活動が活発化し警察当局の眼が光っている時でもあり、こうした情勢を鑑みて御尊彭のご奉斎は取り止めるべきである」といい、その反対に木原、森山氏等教団幹部は、「これはメシヤ様独自のカラーであり、メシヤ様の一つの御経綸として仰せられたものであり、あくまで実行すベきである。社会の動きに対し、何故迎合する必要があるか」と厳しく意見が戦われた。

 

 

昭和29年6月25日

6月25日より3日間に亘って行われた日光殿での御参拝は、御簾をおろし、電気を消して天津祝詞を奏上。「天照皇大御神守り給へ幸倍賜へ」と奉唱する。

 

祭典後、日光殿幹部室(後部和室)に於て会長会議が開かれる。以下はその時の本部の役員より説明された内容である。

 

○「明主様」を「メシヤ様」と申し上げる事になった。

○「メシヤ様」は最高神であらせられるから今後は最高の敬語を使用しなければならない。

○朝夕、祝詞を奉唱する時は「天照皇大御神守り給へ幸倍賜へ」と唱和させて頂く。

○御神体はお写真(御尊影)にかわる。

○お写真の御奉斎の前に御簾をお掛けする。それに伴い御神前の縦、横を採寸し、見取図を作成して本部へ報告する。